江戸時代を代表する浮世絵師の一人、歌川広重。日本各地の美しい風景を描いた作品は、今なお国内外で高く評価されています。では、広重にはどのような有名作品があり、どのような人生を歩んだのでしょうか。
本記事では、歌川広重の浮世絵で有名な作品と生い立ちについて紹介していきます。
歌川広重の浮世絵で有名な作品5選!
歌川広重は、四季折々の風景や旅先の情景を情緒豊かに描いた浮世絵師です。雨や雪などの自然現象を巧みに取り入れた作品や、大胆な構図を用いた作品を数多く残しました。ここでは、歌川広重の浮世絵で有名な作品を5選紹介します。
東海道五十三次「庄野 白雨」
「東海道五十三次」は、歌川広重の名を一躍有名にした代表的な浮世絵シリーズです。江戸の日本橋から京都の三条大橋まで、東海道の宿場や道中の風景が描かれています。なかでも「庄野 白雨」は、突然降り始めた激しい雨の中を坂道を急ぐ人々を描いた作品です。
斜めに降り注ぐ雨や風になびく木々によって、荒れた天候が巧みに表現されています。静止画でありながら、人々が慌てて走る様子や雨音まで感じられるような躍動感が特徴です。広重の優れた風景表現を象徴する一枚として知られています。
東海道五十三次「蒲原 夜之雪」
「蒲原 夜之雪」も、「東海道五十三次」を代表する作品の一つです。雪が降り積もる静かな夜道を、笠をかぶった旅人たちが歩く姿が描かれています。画面全体に白や灰色を多く使い、雪に包まれた 静寂な風景を表現しているのが特徴です。
昼間のにぎやかな街道風景とは異なり、幻想的で落ち着いた雰囲気が漂っています。実際の蒲原周辺の景観をそのまま描いたというよりも 、広重自身の感性を活かして印象的な雪景色へと仕上げた作品としても注目されています。
東海道五十三次「亀山 雪晴」
「亀山 雪晴」は、雪が降ったあとの亀山宿周辺を描いた作品です。白く覆われた山道を、大名行列とみられる一行が進んでいく様子が表現されています。画面を大きく横切る斜面と、青い空の組み合わせが印象的です。
雪景色の冷たさだけでなく、朝の澄んだ空気まで伝わってくるような構図になっています。雪の白と空の青を生かした色彩からも、広重ならではの季節表現を感じられます。
名所江戸百景「大はしあたけの夕立」
「名所江戸百景」は、江戸の名所や人々の暮らしを描いた広重晩年の代表作です。その中でも特に有名なのが「大はしあたけの夕立」です。突然の夕立に見舞われ、橋の上を急ぐ人々が描かれています。
細い線を斜めに重ねて激しく降る雨を表現している点が特徴で、天候が一瞬で変化する様子を感じさせます。この作品は海外でも高く評価され、ゴッホが模写したことでも知られています。
名所江戸百景「亀戸梅屋舗」
「亀戸梅屋舗」は、江戸の名所として知られた亀戸の梅屋敷を描いた作品です。画面の手前に大きな梅の木を配置し、その奥に梅園を楽しむ人々の姿が描かれています。近くのものを極端に大きく描き、遠くの景色と組み合わせる大胆な構図が特徴です。
当時の一般的な風景画とは異なる印象を与え、広重ならではの構図の面白さを感じられます。
歌川広重の生い立ちについて
歌川広重は、もともと浮世絵師の家に生まれた人物ではありません。幼くして両親を亡くし、火消の家業を継ぎながら絵の道を志しました。ここでは、広重の生い立ちから浮世絵師として活躍するまでを紹介します。
1797年に江戸の定火消同心の家に生まれる
歌川広重は1797年(寛政9年)、江戸の八重洲河岸に生まれました。本名は安藤重右衛門といい、幼名は徳太郎とされています。父の安藤源右衛門は、江戸幕府の消防組織である定火消に所属する同心でした。
定火消は江戸城や市中の火災に備える役目を担っており、広重は武士の家に生まれたことになります。幼い頃から絵を描くことが好きだったとされ、のちに浮世絵師として歩む素地は少年時代から育まれていたようです。
13歳で両親を亡くし家業の火消を継ぐ
広重の人生が大きく変わったのは、1809年(文化6年)のことです。この年に母を亡くし、その後、父も亡くなりました。両親を相次いで失った広重は、13歳で父の跡を継ぎ、定火消同心として家業を担うことになります。
まだ若いうちから家族を支える立場となったのです。しかし、火消として働く一方で絵への関心を持ち続け、やがて本格的に浮世絵を学ぶようになります。
歌川豊広に弟子入りし「広重」を名乗る
1811年(文化8年)頃、広重は浮世絵師の歌川豊広に弟子入りしました。当時の広重は火消の仕事を続けながら、浮世絵師としての修業にも励んでいたとされています。「広重」という画号は、師匠である豊広の「広」と、本名の重右衛門の「重」を一字ずつ取って付けられました。
現在では風景画の名手として知られる広重ですが、はじめから風景画を描いていたわけではありません。さまざまな題材に取り組みながら、浮世絵師として経験を積んでいきました。
火消の仕事を離れて浮世絵師として活動する
広重はその後、家業を身内へ譲り、次第に絵師としての活動に力を注ぐようになります。20代半ばには家督を親族に譲ったとされ、本格的に画業へ進んでいきました。大きな転機となったのが、1833年(天保4年)頃に刊行された「東海道五拾三次之内」です。
江戸から京都までの宿場や道中の風景を情緒豊かに描いた作品は人気を集め、広重は名所絵を代表する浮世絵師となりました。その後も「木曾海道六拾九次之内」や「冨士三十六景」など、多くの風景作品を残しています。
晩年まで作品を描き続け62歳で亡くなる
晩年の広重は、江戸のさまざまな名所を描いた「名所江戸百景」の制作にも取り組みました。近景を大きく描く大胆な構図や、雨・雪・霧などを生かした表現は、後に海外の画家にも影響を与えることになります。
しかし、「名所江戸百景」を制作していた1858年(安政5年)9月6日、広重は62歳で亡くなりました。火消の家に生まれ、幼くして両親を失いながらも絵の道を歩み続けた広重。その作品は没後も高く評価され、ゴッホやモネなど西洋の画家たちにも影響を与えました。
最後に
歌川広重の浮世絵で有名な作品には、「東海道五十三次」や「名所江戸百景」などがあります。火消の家に生まれ、家業を継ぎながら絵の道を志した生い立ちも、広重を知るうえで欠かせません。
作品ごとの構図や季節表現にも注目すると、広重ならではの魅力をより深く感じられるでしょう。


