この記事では、草間彌生さんが子供の頃病気だったのか調査しました。長野県松本市出身の世界的現代アーティストである、草間彌生さん。子供の頃病気だったのではないかと言われているそうですが、事実なのでしょうか。実は草間彌生さん、子供の頃からのとある症状によって、ご自身のアートを「自己消滅」というテーマの芸術に昇華しているんです。2016年には文化勲章を受章している草間彌生さんの、衝撃的な幼少期について見てみましょう。
草間彌生は子供のころ病気だった?
草間彌生さんは、子供の頃とある症状に悩まされていました。しかしそれは、噂されているように身体的な病気ではありませんでした。実は草間彌生さんは、子供の頃から深刻な幻覚や幻聴に悩まされていたのです。草間さんが経験してきた苦しみは、現在の彼女の作品に直結しています。どのようにして、草間さんご自身のアートにつながったのか見てみましょう。
幼少期から始まった幻覚や幻聴
草間彌生さんは、子供の頃から幻覚や幻聴に悩まされていました。食卓の赤い花模様のテーブルクロスを見つめた後、目をそらしてもその模様が天井や壁、自分の体までをも覆い尽くすように見えたそうです。草間彌生さんが描く果てしない水玉模様は、この幻覚から生まれたそうですよ。また、スミレなどの花が人間に話しかけてくるような幻聴を聞くこともありました。幼かった草間彌生さんにとって、それらは恐ろしい体験として記憶に残っているそうですよ。
参考:家庭画報
自分が消えてなくなる恐怖
草間彌生さんは幻覚や幻聴に悩まされるようになり、世界が水玉や網目で埋め尽くされ、自分という存在が溶けてなくなってしまうような感覚に襲われたそうです。草間彌生さんはこの感覚を「自己消滅」と呼び、絵を描くことで逃げようとしました。草間さんにとって芸術は、この自己消滅を治療するためのものといっても過言ではなかったのでしょう。頭の中に溢れる恐ろしいイメージを紙に書き出すことで、パニックを鎮め、自分をコントロールしようとしたのですね。
家庭環境が原因?
草間彌生さんが苦しめられていた幻覚や幻聴は、家庭環境が原因だったのではないかといわれました。実は草間彌生さんは、厳格で教育に厳しい母親との関係にも苦しんでいたそうです。母親は、草間さんが絵を描くことを許さず、描いたそばから取り上げて破り捨てていたともいわれています。抑圧的な環境で育った草間さんは、精神を病んでいったそうです。精神科医の西丸四方(にしまる・しほう)氏は、彼女を治療する中で才能に気付き、医学的な観点からも彼女が描き続けることを支援しました。
母親との関係が芸術家の才能を後押し?
草間彌生さんの母親は、草間さんの絵を見つけるや否や破り捨てていました。そのため、草間さんは子供の頃から「母親に捨てられる前に描き終えたい」という気持ちが強くあったとされています。そんな恐怖体験から、草間さんは現在も猛烈なスピードで作品を仕上げているのでしょう。幻覚や幻聴を母親に訴えたこともありましたが、母親はさらに厳しくしつけようとしました。こうして、どんどん草間さんは表現の世界へ向かっていくことになります。
草間彌生の生い立ち
草間彌生さんは、長野県松本市で生まれ育ちました。実家は種苗業を営む裕福な家庭で、幼い頃から自然に囲まれていたそうです。前述のように、幻覚や幻聴に悩まされていた幼少期でしたが、まるで耳なし芳一が全身にお経を書いたように、幻覚や幻聴から身を守るために、作品全体を水玉で埋め尽くすものだといわれています。そんな草間彌生さんの作品を作り出したといっても過言ではない、生い立ちを見てみましょう。
幼くして統合失調症に
草間彌生さんが、前述の精神障害に悩まされ始めたのは10歳くらいでした。西丸四方氏は統合失調症と診断し、厳しい家庭環境でしたが、その合間にも絵を描き続けていたそうです。保守的な家庭環境にあり、10代のうちは特に精神障害に悩まされた時期だったようですね。10歳頃からすでに水玉と網目模様をモチーフとしていて、今では草間彌生さんの代名詞となっていますね。
不倫の監視役をした過去
草間彌生さんの父親は、外で多くの女性を作るような人物だったそうです。そんな夫の監視役に草間さんの母親が選んだのは、娘の彌生さんでした。父親の不倫現場を突き止めるよう言われ、幼い草間さんは父親の不倫現場を幾度となく見てきました。そしてそれをヒステリックな母親に報告するという行為は、どんなに苦しかったことでしょう。さらに草間彌生さんは、性=汚いものだと教わってきたそうです。
参考:毎日経済
第二次世界大戦を経験
草間彌生さんは10代の頃に、第二次世界大戦を経験しています。当時は学徒動員としてパラシュート工場で働いていました。多忙を極め、厳しい環境だったそうですが、その間にもずっと絵は描いていたそうですよ。そして、疎開してきた画家らが立ち上げた「第一回全信州美術展覧会」では、16歳という若さで入選。日本画を修行しており、現在の京都市立芸術大学で学んでいました。しかし、そこで学ぶ内容に違和感を抱き始めます。
芸術を極めにアメリカへ
草間彌生さんは自身の芸術を追求するため、1957年にアメリカへ渡りました。この経験が、世界的な前衛芸術家としての道を歩み始めることになります。日本ではすでに4度の個展を開いていたため、渡米の糸口は作られていたそうです。渡米後はシアトルからニューヨークに移り、ドナルド・ジャッドやドア・アシュトンという大物画家に認められるように。こうして、草間彌生さんはニューヨークを拠点に活動するようになりました。
まとめ
草間彌生さんが子供の頃病気だったのかという噂について調査しました。草間彌生さんは、身体的な病気に苦しんでいたわけではありませんが、幻覚・幻聴といった精神的な苦痛を味わってきました。現在、草間彌生さんの代名詞ともなっている水玉模様のアートは、この幻覚から始まったものとされています。母親との関係をはじめとする、厳格な家庭環境が影響したとされていますが、皮肉にもそれが、草間さんの世界的画家としてのポテンシャルが見抜かれるヒントとなったのですね。今後もいたるところで語りつがれる人物となっていくでしょう。






