葛飾北斎の変人エピソードを紹介!名言や生い立ちについても

葛飾北斎の変人エピソードを紹介!名言や生い立ちについても

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葛飾北斎は、「すみだ北斎美術館」という専門の美術館があるなど、日本を代表する浮世絵師として世界的な評価を受ける一方、その生涯や人柄にも多くの関心が集まっています。この記事では、変人と言われた葛飾北斎のエピソードや名言、生い立ちについて解説していきます。

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葛飾北斎の変人エピソードを紹介!

葛飾北斎は「富嶽三十六景」で知られる天才絵師ですが、常識外れな行動でも有名です。まは、その変人ぶりがわかる葛飾北斎のエピソードを厳選して紹介します。

生涯で93回も!引っ越しを繰り返した理由

葛飾北斎の奇行として有名なのが、約93回ともいわれる引っ越しの多さです。住まいは最小限の生活空間だけを確保し、紙くずや絵具、筆が散乱した状態で制作を続けていたそうです。

整理整頓よりも描きたいときにすぐ描ける環境を最優先にしていたため、部屋そのものがアトリエのような状態でした。環境に納得できなければ即座に移る徹底ぶりは、創作への集中力の表れといえます。

お金に無頓着?包みのまま支払ったエピソード

世界的絵師でありながら、北斎はお金に対して信じられないほど無頓着でした。絵の報酬を受け取っても中身を確認せず、机の上に放置。画材屋や借家の大家から請求が来ると、その包みのまま「そこから持っていけ」と渡していたそうです。

そのため、必要以上の大金を支払ってしまったり、逆にだまされたりすることも日常茶飯事でした。彼にとってお金は、大好きな絵具や紙を買い、生き延びるためだけの道具に過ぎず、富や名声には一切の興味がなかったことが伺えるエピソードです。

名前はただの記号?30回以上の改名癖

北斎は生涯で30回以上も名前を変えた改名マニアでもありました。春朗から始まり北斎、為一、画狂老人卍など、そのバリエーションは実に多彩です。当時の絵師にとって、有名になった名前は弟子に高値で譲ることができるブランドでした。

北斎は生活が苦しくなると、自分の名前を弟子に売って収入を得ていたと言われています。彼にとって名前とは、自己の証明ではなく、絵を描き続けるための手段、あるいはその時々の画風を表す記号に過ぎなかったのです。

葛飾北斎の名言は?

葛飾北斎は数々の名作を残しただけでなく、人生観や創作への情熱を感じさせる言葉も伝えられています。ここでは、北斎の代表的な名言と、その意味について紹介します。

「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」

北斎が90歳で世を去る直前、残したとされる最も有名な最期の言葉です。「天が私にあと5年の命をくれるなら、本物の画家になれたのに」という意味を持っています。世界を震撼させる傑作を数多く生み出し、誰もが認める天才となった絵師が、死の間際になってもなお自分はまだ本物ではないと悔しがったのです。

この言葉には、生涯をかけて絵の道を極めようとした彼の底知れない執念と飽くなき探求心が凝縮されています。どこまでも謙虚でありながら、絵に対する凄まじい熱量が伝わってくる名言です。

「私は80歳を過ぎても、未だに猫一匹すら満足に描くことができない」

晩年の北斎が、自分の描いた絵を見て涙を流しながら嘆いたとされる言葉です。周囲から見れば神業のような描写力を持っていた彼ですが、本人の目指す理想は遥か高い場所にありました。

現状の技術に決して満足せず、常に「もっとリアルに、もっと本質を描きたい」と願い続けた北斎。90代近い生涯のなかで、膨大な数の作品を残した天才が放ったこの謙虚すぎる一言は、彼が単なる職人ではなく、芸術に対して純粋で誠実な求道者であり続けたことを、何よりも雄弁に物語っています。

「百歳にしてはまさに神妙の域に及ぶべし」

代表作「富嶽三十六景」の解説に記された、未来の自分への確信に満ちた言葉です。北斎は「73歳でようやく生き物の骨格や植物の生まれが分かってきた。80歳でさらに進歩し、90歳で奥義を極め、100歳になれば神の領域に達するだろう」と続けました。

高齢になっても自分の才能が衰えるどころか、むしろ進化し続けているという強烈な自負が込められています。年齢を言い訳にせず、死ぬまで成長し続けることを疑わなかった彼の姿勢は、現代の私たちにも深い勇気を与えてくれます。

葛飾北斎の生い立ち

世界的な名画を数多く残した葛飾北斎ですが、その才能はどのように育まれたのでしょうか。ここでは、幼少期から晩年までの歩みをたどりながら、北斎の生い立ちを紹介します。

江戸の本所に生まれ、鏡磨師の養子へ

葛飾北斎は1760年武蔵国葛飾郡の本所割下水(現在の東京都墨田区)に生まれました。幼名は時太郎。実の父親については諸説がありますが、幼少期に幕末御用達の鏡磨師であった中島伊勢の養子に出されます。

職人の家庭環境で育ったことで、幼い頃からモノづくりやデザインといった芸術的な完成に触れる機会が多かったと考えられています。その後、家業を継ぐ道もありましたが、絵への情熱を抑えきれず、結果として独自の芸術の道を歩み始めることになります。

貸本屋の丁稚から木版彫刻師の徒弟へ

10代前半の北斎は、まず貸本屋の丁稚として働き始めます。当時の貸本屋は江戸のトレンド発信地であり、彼はここで多くの多くの浮世絵や絵入り小説に触れ、視覚表現の魅力を吸収していきました。

さらに14歳頃からは、木版画の原版を削る「木版彫刻師(彫師)」の徒弟となります。文字や緻密な線を正確に彫る厳しい修行を通じて、北斎は卓越した線のコントロール力と、版画が完成するまでの技術的なプロセスを完璧にマスターし、後の絵師としての土台を築きました。

勝川春章への入門と「春朗」としての船出

絵を描く側に回ることを決意した北斎は、19歳の時に当時トップクラスの人気を誇っていた浮世絵師・勝川春章の門を叩きます。その才能はすぐに認められ、わずか1年後には勝川春朗の名をもらい、プロの絵師としてデビューを果たしました。

役者絵などを手がけた北斎ですが、他派の画法を貪欲に学んだことで破門されます。しかし、これが唯一無二の天才へ導く転機となりました。その後も独自の画風を追求して描き続け、1849年に90歳で亡くなる直前まで、凄まじい情熱を注ぎ込み続けました。

最後に

変人と言われた葛飾北斎のエピソードは、度重なる引っ越しや改名など常識にとらわれない生き方に表れています。また、名言や生い立ちからは、芸術に人生を捧げた強い情熱も感じられました。

作品とともに人物像を知ることで、その魅力はより深く理解できるでしょう。

この記事を書いた人

サイトにアクセスしていただきありがとうございます!関東在住のオフィスワーカーこころです。ヨーロッパへの旅行が好きで、その中で美術館を訪れる機会が増えたことで絵画に興味を持つようになりました♪これまで興味がわかなかった方も楽しんでアートを身近に感じてもらえるような情報を発信していきます。

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