20世紀美術を語るうえで欠かせない存在がピカソです。その名は広く知られていますが、「本名は?」「なぜ名前が二つあるの?」といった基本的な疑問をきちんと理解している人は意外と多くありません。
本記事では、ピカソの本名の由来から生い立ちまで丁寧に解説していきます。
ピカソの本名は?
実はピカソの本名はもの凄―く長いんです!ピカソの名前の長さ規格外って感じ。日本でフルネームで最も長いと言われているのが1949年に実業家として実在していた「藤本太郎喜左衛門将時」((ふじもと たろうきざえもんのしょうときのり)です。
これも長いと思ってしまいますが、ピカソの本名は下記の通り英語表記で85字にも及びます。
| パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ (Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso) |
実際に役所の出生証明書に出されている正式な名前ですが、本当に長いですよね。
ピカソには名前が2つあるって本当?
ピカソには長い本名がありましたが、実はこの長い名前が二つあります。それは、先ほどご紹介した出生証明書に記録された本名と洗礼を受けた時に記録された名前です。
| 本 名 | 洗 礼 名 |
| パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ | パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・クリスピン・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ・ルイス・イ・ピカソ |
本名も長いと感じましたが、比べてみると洗礼名の方が長いのです。
ファーストネームは叔父から
ピカソの本名である「パブロ」ですが、これはファーストネームにあたりキリスト教の聖人パウロに由来します。パウロはスペイン語では「パブロ」と発音するそうで、ピカソの息子もピカソと同じくこのパウロの名前をもらっていますが、フランス語読みでポール・ピカソと呼ばれています。
ピカソの本名のファーストネームである「パウロ」はピカソの叔父から受け継いだもので19世紀スペインでは、親族や聖人名を受け継ぐ命名が一般的でした。
ピカソの名前には縁者の名前がたくさん
ピカソの本名の最初の部分には祖父や叔父、母方の祖父のファーストネームなど縁者の名前がたくさん含まれているのです。
「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ」の由来を以下の表にまとめてみました。
| 名前 | 縁者 | 宗教上の名前 |
| パブロ | 叔父 | キリスト教の聖人パウロ |
| ディエゴ | 父方の祖父のファーストネーム ピカソの伯父の一人 | 旧約聖書の預言者ヤコブ |
| ホセ | 父親のファーストネー | 新約聖書のヨセフ |
| フランシスコ・デ・パウラ | 母方の祖父のファーストネーム | 聖人名 |
| フアン・ネポムセーノ | 代父(名付け親)のファーストネーム | キリスト教の制度上の父親 |
パブロ・ピカソと短縮される理由
ピカソの本名は長すぎて実は本人も覚えていなかったらしいです。スペイン人は、父親と母親の両方の姓を合わせて自分の名前とするのが一般的な考え方で「パブロ・ルイス・ピカソ」と表記されることが多かったようです。
しかし、ピカソはフランスではピカソは母親の姓の方が語呂が良いと考え「パブロ・ピカソ」と名乗るようになっていました。
ピカソの名前の意味
ピカソの名前には特別な意味があるとする説がネット上で拡散していますが、信頼できる根拠はありません。パブロ・ピカソの本名はカトリックの命名習慣に基づくもので、複数の聖人名と両親の姓から成り立っています。
「小さな使徒よ お前は神が与えた人間である 神の恵みである 聖母マリアの救いである 渦巻く三位一体 それはキリスト教徒の戦いである ツルハシ便利」こんな意味があるという説もネットでは囁かれていますが、それっぽく書かれていますが信頼できる史料は確認されていません。
どこからこんなデマがでたのかはわかりませんが、ネットのコピペ世界でどんどん広まってしまったのでしょう。
ピカソの生い立ちに
ピカソは1881年、スペイン南部マラガで生まれました。生まれた瞬間は息をしておらず、葉巻を鼻から流して呼吸させたらしいというエピソードが有名です。ピカソの父親は画家で美術の先生。絵に囲まれて育ったピカソは、幼少期からかなりの絵の腕前で早くから高い評価を受けていました。
ピカソは幼少期から非凡だった?
小学生の頃に書かれたデッサンなどをみる限り大人顔負けのデッサン力で、10代前半で制作した油彩画はすでに高い完成度を誇り、周囲を驚かせます。
父がその実力を認め、絵筆を譲ったという逸話も残っています。こうした確かな基礎力が、その後の革新的な作品を支える土台となりました。生まれ持った才能だけでなく、地道な練習と厳しい基礎訓練を重ねたからこそ身についた実力だったと考えられます。
若き日のピカソ
パブロ・ピカソは10代後半からすでに頭角を現し、18歳でバルセロナにて初の個展を開いています。若くして注目を集めた彼は、やがて芸術の中心地パリへと向かい、本格的に創作活動を広げていきました。
青の時代―友の死がもたらした転機
1901年、親友カルロス・カサヘマスの自死は、ピカソに大きな衝撃を与えます。この出来事を境に、作品は青を基調とした沈んだ色調へと変化しました。代表作「ラ・ヴィ(人生)」は、この時代の集大成とされています。
モンマルトルと新たな出会い
1904年にピカソは、パリ・モンマルトルにアトリエ「洗濯船」を構え、多くの芸術家たちと交流を重ねました。ここで出会ったフェルナンド・オリヴィエとの同棲生活は、精神的に不安定だった彼を支える存在となり、次第に画面の色彩は明るさを取り戻していきました。
晩年まで続いた創作
パブロ・ピカソは晩年まで創作意欲が衰えることはなく、絵画のほか彫刻や陶芸、版画など多彩な分野で作品を残しました。1937年にはパリ万博スペイン館で《ゲルニカ》を発表します。戦争の惨禍を描いたこの大作は、いまも「ゲルニカ 伝えたいこと」と検索されるほど関心が高く、反戦の象徴として語り継がれています。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに所蔵されています。
まとめ
ピカソの本名は驚くほど長く、カトリックの命名習慣や家族の伝統が色濃く反映されたものでした。その背景や生い立ちを知ることで、作品の向こう側にある、ピカソの素顔や歩んだ道のりがより具体的に感じられます。






